ワインの映画

今日はワインの映画を見た。
主宰は映画はほとんど見ないので、お金払って映画を見たのは恐らく20年ぶりくらいではないだろうか…。
別に映画が嫌いなわけではないのだが…。


見たのは「モンドヴィーノ」。
特に物語性があるわけではなく、ワイン業界でどのようなことが起こっているかを客観的に映像にしていったという印象だ。
テーマは「ワインのグローバリゼーション」の可否の対立軸だ。
濃くて熟成せずにすぐ飲めて甘くて、コクがあるボルドーワインないし、ボルドーを模倣したワインが世界的に流行しているが、映画を見ればそれが、ミシェル・ロランロバート・パーカー、モンダヴィ家、ワイン・スペクテーター誌等によって仕掛けられたものであることが分かる。その権力構造にある種の癒着が発生してることを包み隠さず彼らが話しているところもおもしろい。
一方で、そのようなワイン作り、業界の趨勢に反対する者も登場する。テロワール(土壌)を重視して土地にあったワインを作るべきだという人、単に大資本を恐れ自分の商売の心配をする人、ワイン文化の破壊に警鐘を鳴らす人等。
私見を言えば、ミシェル・ロランロバート・パーカー、モンダヴィ家、ワイン・スペクテーター誌は好きでない。マルゴー村で彼等の好きな「ポムロール」を作り、イタリアで画一的な「ボルドーのグランヴァン」を作って何がおもしろいのか?


ただ、彼らが与えたワイン業界への正のインパクトの大きさは決して無視することは出来ない。何代も続くボルドーの蔵があったとしても、その後継ぎが代々ワイン作りに情熱をかけ続けられるかというとそれは疑問であり、昔なら没落するしかなかったところを、ミシェル・ロランと契約して醸造法についてアドバイスを受け一般受けするワインを造り、ロバート・パーカーにいい点を着けてもらいワインスペクテーター誌に大きく取り上げてもらうことで、ワインは売れ、蔵は再興する。悪いだろうか?


さらに、「難しい」といわれるワインを、大資本は「易しい」ものへと変えた。


1.世界中の人々にロバート・パーカーの好みを強要することで、それが著しく客観性に欠け、正しくないものだとしても、世界で始めて「パーカーポイント」という明確な数字の基準が出来、それが一人歩きすることにより、それを追い求めてワインを購入する人が増えた。
2.ミシェル・ロランが造り、ロバートパーカーが好む、「分かりやすい素人向けのワイン」がワインの敷居を低くし、愛好家が増え、ワイン業界の隆盛に繋がっている。


だいぶ私見と感情を含めて書いたが、客観的にはそれぞれの良し悪しのレベルの話だと思っている。


過去、ヘルベルト・フォン・カラヤンというスター指揮者の登場により、クラシック音楽は「軽薄になった」と言われることもあったが、メディアの普及も相まって、劇的に音楽愛好家が増えた事実を当時のひとはどう見ていたか?
本当に軽薄で退廃的になっていったのか?
事実は違う。確かにカラヤンから始まったと言っていいある種のグローバリゼーションの波は業界に相当の影響をもたらした。
が、サイモン・ラトル等の新たな個性・才能により、音楽表現はさらに進歩を遂げている。また画一的な時代だからこそ、より個性が重視されるようになった。
その変遷が、現代のワインの世界にダブる。